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2009年 05月 12日
子連れで町を歩くと、色んな場面に出会います。
正直、その殆どが、あまり良い物ではありません。 たまたま昼食を食べにファミリーレストランに入ると、大声で騒ぐ子供、走り回る子供、席に立ってしまう子供。そして、それを放置してお喋りに興じる母親連中。 映画を見ていれば、背中を蹴りまくる子供。注意はするけれど、結局はそのまま放置する母親・・・。 電車の車両内で、バカでかい声で騒ぎ、座席の上に靴のまま乗っている子供に注意すらしない父母。 同じ小さな子供を持つ親として、非常に情けないなと思います。 「人に迷惑をかけてはいけない」と、小さい頃に周囲の大人たちに教わらなかったのかなと思うくらいです。 自分達が注意を受ければ「あの人怖いわね。」「あのおばさんが怒るから静かにしなさい。」「五月蝿いわね!」「子供だからしょうがないでしょ!」と逆ギレ。 誰かに罪を被せなければ、自分達の権利を主張出来ないのでしょうかね。 権利や自由は主張しても構わないのですよ。 義務や責任を果たしてくれるものならば、どうぞ心ゆくまで主張して欲しいと思います。 実例その1 ファミリーレストラン。 そりゃあ、お母さん達だってたまには集ってお喋りしたいし、ストレスも発散したいですよね。解ります。 でも、ここは子供が大声を上げて騒いで走り回って良い場所なんですか? 沢山の人が利用する公共の場所ですよ。 ゆっくりと食事しているときに、傍でギャーギャー騒がれて、気分のいい人っていますか? 見かねて注意すれば逆ギレ。一体何様なんでしょうね。お客様ですか? こちらも同じ客として来ているんですよ。 そんなにお喋りしたいのなら、自宅でお茶会でも開いて頂戴な。 実例その2 映画館。 子供が落ち着けなくて、周囲の人の背もたれをガンガン蹴りまくります。 「ちょっとやめなさいよ。」「帰るよ!」などと、口では言うけれど、一向に帰らない。 しかも、子供はものすごく咳をしています。 あなた、本当に子供のためを思って来ているのですか? もしかしたら、体調が悪くて苦しいのを我慢させて、「今日しか見られないし、お金払っちゃったから勿体ない」って言うんで、無理矢理居座っているんじゃないでしょうね? こんな人が密集した場所で、周囲の人に、風邪、或いはインフルエンザ、若しくは溶連菌感染症などがうつってしまったらどう責任を取るつもりですか? それにね、あなたの注意をし続けるその声の方が、非常に五月蝿くて耳障りですよ。 映画を見てるんだから、静かにしなさいよ。 出て行く、若しくは、空いている席があるのだから、席を替わるなどの配慮は出来ないんですか? ちなみに、うちの息子はその後しっかりと、A型インフルエンザと溶連菌をダブルで戴きましたよ。 オマケにワタクシまで戴きましたわよ。 治療費請求してもいいかしら? 実例その3 電車内。 子供達がでかい声で喋くっています。靴も脱がずに座席に上がってやりたい放題。 そして親は素知らぬ顔。 おじさんに注意されて、「すみません」と謝るどころか、逆ギレする親。 公共の場所っていうことを忘れていませんか? ここはね、あなたのお家の車の中じゃないんです。 迷惑だから、これから公共交通機関じゃなくて、自家用車使って頂戴。 ま、他にも色々ありますけれど、強烈なものから挙げてみました。 信じられないようや事をする人に時々出くわしますが、こういう人のお陰で、我々子連れの親の肩身が狭くなっているのは、腹に据えかねます。 自分達が子供の躾をしない事や至らない事が原因なのに、逆ギレという形で他人に罪を被せないで欲しいものでございます。 ハッキリ言いましょう。 こ ん な 奴 ら と 一 緒 に さ れ た く あ り ま せ ん 。 # by yaminabex | 2009-05-12 00:01
2007年 10月 26日
結婚して新婚旅行に沖縄に行ってから、なぜだか常に沖縄の事が頭から離れずにいます。
それは、あの慟哭と悲痛の詰まった平和祈念資料館を見たせいなのか、静寂と悲しみの漂うひめゆり平和祈念資料館を見たせいなのか、分かりません。 そして、ここ最近、「島唄」の本来の意味を知り、また衝撃を受けています。 「さとうきび畑」のように、内地の人でも直接分かるような言葉ではなく、遠回しな言葉の裏に秘められた深い悲しみ。 痛めつけられた心は、遠回しな言葉でしか表現出来なくなるのかと悲しくなりました。 誰も思い出したくない戦禍。 本土上陸を食い止めるために犠牲になった人々。 あの青い海に囲まれたのどかな島で起こった災厄。つい半世紀と少し前の事です。 そういえば、ワタクシの戦に関しての問いかけの途中、一瞬何かを言いかけた首里城本殿の学芸員(?)の方。 何を言おうとしたのか。 今となってはそれも知るよしもありませんが、あの時、彼は何を言いかけたのでしょう。 あの時、ワタクシが言葉を続けなければ、どのような話があったのか。 それももう7年近く前の話になりますので、時効でしょう・・・。 某党が唱える「一国二制度」で、真っ先に楯にされるのではないかと言われている沖縄。 日本なのに、外国の基地にその地を殆どを召し上げられている沖縄。 そして、またアメリカ軍のためにヘリポートを建設しようとしている国。 その海には、親子と見られるジュゴンが戻ってきたそうです。 いつもいつも政治的な事に揺るがされている沖縄。 こんなに気になっているなんて、もしかしたら、ワタクシは多分沖縄にいつか遠い昔に住んでいたかも・・・ですね。 # by yaminabex | 2007-10-26 13:40
2007年 08月 01日
「光陰矢の如し」と言われるように、時間はすぐに経っていき、あっという間に一日、一週間、一ヶ月、一年が終わってしまいます。
気が付くと、ここに最終記事を投稿してから約2年。 この2年の間に色々ありました。 2度の妊娠、流産、子供の入園、縁を切っていた友との再交流、mixiへの参加など。 サイトの更新も止まり、日記の更新もmixi日記からの転載となる体たらく。 ネットのお友達も、リンクサイト先は一部を残して交流は途絶え、今は皆さんどうしていることやら。 そして、別の場所では新しい輪が広がっているのです。 時の流れという物は、喜びも悲しみもそれぞれのペースで流していってしまいます。 それは良きに付け悪しきに付け、万人に平等に与えられている機会であります。 とどのつまりは、自分の生活スタイルも年数が経つ事に変わってしまい、考え方も昔ほど何かに固執することなく、ある程度の流れに委ねられるようになったという事でございます。 この2年の月日は、生きてきた過去の中の一部ではあるけれど、「自分」という人間が生きてきた「個人の歴史」という中では割合重要な位置を占めているような気がします。 人が生きる事になぞらえるならば、2年という月日は、生まれたばかりの子供なら、寝返り、お座り、ハイハイを経てつかまり立ちをして歩き、伝い歩きが出来るようになり、食事もおっぱいから離乳食、更には幼児食に代わり、泣いて意思を表示していたものが、言葉を覚えて拙い言葉でも自分の意思を伝えられるようになっていくのです。 ここまで素晴らしい変化が訪れる2年。思い返しててみるとあっという間でございます。 死にたいほど悲しくて情けない事も。嬉しい事もたくさんありました。 それでもワタクシは生きています。 人は喜びの中で生きる事が出来ますし、救いようのないどん底で、這いつくばって辛酸をなめながらでも生きていかなければならない時もあります。 貴方はこの2年ほど、どのように過ごされましたか? # by yaminabex | 2007-08-01 23:35
2004年 10月 02日
☆仮ですので、内容が変わるおそれがあります。☆
子供を産んで親になって初めに思ったことは、「可愛い。」そして、「この子をどのように育てていくか。」ということです。 以前、「子供は『育てる』のではなく、『育つ』」というコメントを頂いたことはありますが、やはり「育てる」というのがワタクシ的には一番しっくりきます。 ワタクシがコメントの趣旨を読み取れていないせいかも分かりませんが、「育つ」というのは、ある程度手が離れてからの事だと思うのです。 子供は育つには育つと思うのです。 ですが、育つだけでは「何かが足りない」と思うのです。 小さな子供はニュートラルな状態です。例えれば、「交通ルールを理解していない自動車の運転手」と言ったところでしょうか。 その「運転手」に「交通ルール」を教える役目を果たすのが、親の教育(つまり「育てる」)だと思うのです。 遵守しなければ大事故に繋がる交通ルールを教えなければ、他人に迷惑をかけ、しなくてもいい諍いが起こる事でしょう。 自分で考える力を持つためにも、社会生活に必要なルール、道徳を教えるのは、「親」なのだと思うのです。 ですから、「育つ」という、無責任とも思える言葉は使いたくないのです。 子供は、育つには放っておいても育つでしょう。(基本的な衣食住は確保されていると仮定して。) ですが、方向性を示してやるのは誰なのでしょう。 「育つ」と「育てる」ということは、全く別次元の問題のような気がしてなりません。 それとともに、我が身に課せられた重責に、おののきつつも身が引き締まる思いです。 # by yaminabex | 2004-10-02 23:50
2004年 08月 04日
「忘れられたらこんなに楽なことはないのに・・・。」という事が結構あります。そして、すっかり忘れてしまったこともそれ以上にたくさんあります。
特にワタクシなどは、どうでも良いことは良く覚えているのですが、大切なことに関する記憶力が欠落しているのではないかと思うほど、物忘れは激しい方です。 ワタクシの父が晩年、 「おふくろが入院してるときに見舞いに行ったら『あんた誰だね?』と言われた。俺ぁ、あれを聞いて情けなくて涙が止まらんかった。俺のことを忘れやがって・・・。」 と、よく申しておりました。 自分を産んで育ててくれた親が自分のことを解らなくなったという事に衝撃を受けたのでしょう。 しかし、そのように嘆いていた当の父も、ワタクシの結婚も決まり、荷納めも目前に迫ったある日のお昼、一緒にニュース番組を見ていた時にふとワタクシの顔を一瞬凝視して、 「あんた誰だね?」 と言ったのです。 ああ、父の味わった「忘れられた」という感覚はこういうことなのか・・・と思いました。 しかし、ワタクシは、不思議と父のように「情けない」とは思いませんでした。こういうこともあるのだなぁと、それだけです。 冷たいようですが、「年を取ったのだな」と感じただけでした。 その数日後、父は息を引き取ったのですが、未だに鮮明に残っているということは、ワタクシにとっては意外にショックな出来事だったのでしょう。これでも一応、子供の頃はかなりのお父さんっ子でもありましたし。 「忘れる」ということは、年を経るとある意味仕方のないことだと思います。父は当時病気を患っていたこともあり、多少ボケの兆候も認められましたから。 ある文献によると、人が身内の誰かを忘れる時には、一番大事な人から忘れていくのだそうです。 気休めにしかなりませんが、少しホッとしました・・・。 そういえば、余り関連はありませんが、「忘れる」ということでふと思い出しました。 確か、画家のマリー・ローランサンでしたか・・・「忘れられた女」(題名はうろ覚えです。)という言葉(詩)がありました。 かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。 この理論でいくと、ワタクシは哀れな女なのでしょうか? いいえ、そうとは思いません。 そう思うのは、その人の置かれた状況や立場によりでしょう。 それよりも、「人は2度死ぬ」という言葉のほうが、最後の二行と言っていることは同じでも、端的でワタクシの気持ちにあっていると思います。 一度目の死は肉体の死。 二度目の死は人々の記憶から忘れられたとき。 人が「名を残したい」と願うのは、人々の記憶から忘れ去られてしまう「二度目の死」を恐れるからなのかな・・・と思えないでもありません # by yaminabex | 2004-08-04 00:25
2004年 08月 04日
新しい年を迎えて早々、ご近所や知人、かつての上司、そして親族などの訃報が相次ぎました。
亡くなった理由も年齢も様々ですが、それらの報を聞く度に、切なく悲しい気持ちになります。 そして、ニュース等でも繰り返される、痛ましい事件事故・・・。言葉が見つかりません。そんな報を聞く度、「誰もいなくならないで欲しい」と思うのは、ただの綺麗事や我が侭なのでしょうか・・・。 人は意外に丈夫いようで、何か事があると簡単に死んでしまいます。 ある説によると、「毎日が何事もなくつつがなく過ぎて行き、無事に生きている方が不思議な状態」なのだそうです。 逆説的な考えなのかもしれませんが、自然界では「喰うか喰われるか」というのは日常茶飯事です。それを人間に当てはめてみれば、今の「命を生かす」状態であるということは、ある意味不自然なことなのかもしれません。 イッキに訃報続きの日々を経験すると、先の説はとても重い言葉に感じます。 みんな1人で産まれて1人で一人前に育ってきたような顔をしていても、実際は木の股から産まれたわけではなく、それぞれ親がいて、そのまた親がいて、そしてご先祖様がいて・・・と、確実に自分の中に脈々と流れる血や系譜があり、それらの人や自分の周りの人々の助力や自然の恵みによって「生かされている」のですが、何かきっかけがないとなかなか実感できるものでもないようです。(あまりこのように書くと少々宗教じみてきますので何ですが・・・。) ワタクシの場合は、それは父の死や、結婚式直前に名古屋で遭遇した大水害、そして地元で経験した竜巻被害が当てはまります。 家族の死は、残された家族にとっては重大な事件ですが、直接に関係ない人や全く知らない人にとっては、自然の摂理であって何と言うことはない出来事です。 昨日まで生きていた人が、突然物言わぬ冷たい物体に変わり、無機物となって小さな白木の箱に収まってしまうのは、どんなに憎い人であろうと、どんなに愛しい人であろうと変わりません。 突発的な事件や事故に巻き込まれて、明日は自分がそうなっているかも解らないのです。 人間というものは、自分にとってイレギュラーな状態を経験してはじめて、「何事もない平凡な日々」の有り難さが理解できるのでしょうね。 多少の不満があろうと、何事もなく普通に過ごせる日々の有難さを謙虚に受け止めなければなぁと思う年の初めの月でした。 # by yaminabex | 2004-08-04 00:23
2004年 08月 04日
幼い頃はテレビのない生活が考えられないほどテレビっ子でした。月曜日の朝のNHK7時のニュースからはじまり、日曜日の大河ドラマまで、毎日テレビがついておりました。
しかし、大人になるに従い、テレビというものを殆ど見なくなりました。 現在、我が家はテレビというものを置いておりません。ニュースは現在もwebやラジオで毎日チェックしておりますが、テレビに関しては、魅力的であり、面白いと思う内容のものが殆ど存在しないのです。 ドラマも所詮は現実世界ではあり得ない他人の脳髄で考えられた空想の出来事ですし、ドラマよりも現実世界の方が刺激的すぎます。 ワタクシが一番気に入らなく、テレビを敬遠する原因となったものは、現在「バラエティー」と呼ばれるジャンルの番組です。 各々が磨いた芸を披露する寄席等の演芸番組や「ものまね歌合戦」なんかは割と好きですが、人を貶め、傷つけ、辱めることでとる笑いは大嫌いです。 こんなものは「バラエティー」ではなく、ただの「嫌がらせ」だとしか思えません。 確かにそうでないものも存在しますが、人に恥をかかせることでとる笑いというものが、どれほど品のないものかという事が分からないほど、日本人は礼節を忘れてしまっているのかしら?と思うほどです。 自分たち、あるいは他人が見て「面白ければ何をやってもいい」というスタンスほど危険なことはないと思うのです。それは間違った権利や自由を増長する元凶にもなりかねないのではないでしょうか。 自分が何か行動を起こすことで、他人に不快感を与えないというのは、最低限のマナーであり、ルールでもあるとワタクシは認識しております。 しかし、情報を流しっぱなしで注意を促したり、責任をとったりすることのできないマス・メディアが率先して、いろんな危険を内包した「暇つぶし」にしか値しない番組を製作するのは如何なものかと思ったりするわけです。 テレビは決していけないものではないと思いますし、ワタクシも嫌いなものではありません。しかし、制作側の姿勢が気に入らないので見ないといった方が正しいです。そして、視聴者側も番組選択眼を養うことが必要なんでしょうね # by yaminabex | 2004-08-04 00:23
2004年 08月 04日
「マニュアル人間」という言葉があります。マニュアル通りにしか動けず、自分の思考をそこで停止させている人を揶揄する言葉としても知られています。あまりいい意味では使われない「マニュアル」という言葉ですが、何か事を起こすには必要な場合もあります。
例えば、欲しくて仕方がなかったオーディオコンポが手に入りました。初めて使うものはどういう機能があり、どうやったら使えるようになるのか、また壊れたときはどういう場合がありうるのか、エラー症状が出たらどうすべきか。マニュアルには事細かに記してあります。 しかし、現実問題としてマニュアルを自分がしっかり読んでいなかったが為に、簡単なことで他人の手を煩わせるという事例をよく見かけます。「そんなこと、マニュアル見れば書いてあるだろう?」といった基本的なことです。 ワタクシ、基本的には「機械なんか人間の作ったものだから、それに対処するためには必ずマニュアルが存在するはずだ。それを見れば解るじゃないか!」という人間ですので、マニュアルも読まずに「解らない」を連発されると、時に不機嫌になったりします。 読んで理解できない部分があるのは仕方がありません。しかし、読まずに「理解できない」はないだろうと思うのです。それは、先の例えに出したように、自分が欲しくて購入したオーディオコンポの操作すら放棄してしまうことにもなりかねないことに繋がると思うのです。 マニュアルは、時に必需品であり、時には人の足枷となる場合があります。 ただ、「こうでなければいけない」という場面ではとても役立つ物ですが、それ以外は人を縛る物にもなりかねないと思うのです。 雑誌通りのデートコース、雑誌通りのお店で雑誌と同じメニューを食べて満足できれば、それはそれで、その人にとっては有益かもしれませんが、ただそれだけです。 他にものんびりと出来て、日差し溢れる素敵な場所もあるかもしれないのに、そういう楽しみも見いだせぬままかもしれません。 仕事上では、自分に決裁権限のないものに対しては、マニュアル通りに処理して指示待ちするのが筋だと思います。しかし、自分自身で裁量を下すしかない、生活志向や生き方に対してまで、主体性を放棄したマニュアル通りであるということは如何なものかと思うのです。 # by yaminabex | 2004-08-04 00:22
2004年 08月 04日
「 話を聞かない男、地図が読めない女 」という本があるそうです。ワタクシは中身を読んだことがないので、どういうお話かはよく分からないのですが、タイトルだけ見ると「なるほどなぁ」と思ってしまいます。
男性の「話を聞かない」という方はどうかは分からないですが、確かに女性は全般的に地図を読むのは苦手のような気がします。 実のところを申し上げますと、ワタクシ未だに右と左をよく間違えます。右利きですので「お箸を持つ方の手が右」ということは分かっているのですが、やっぱり間違えてしまいます。これは夫に非常に驚かれました。そのせいか、極度の方向音痴でもあります。 方向音痴かつ左右を間違えるというのは致命的な欠陥であるとは自覚しておりますが、それと「地図を読めない」という事は全く別問題と思っております。 なぜならば、地図は視覚に訴えるものであり、親切に目印になる建造物や機関などが書いてありますので、大概見れば現在地が分かるものであるからです。 現にこんなワタクシでも、地図を見てあらかじめ下調べをしておけば、後は方向指示の看板によって目的地に到着することが出来るので、このような結論となったのです。 ですから、「女性が地図が読めない」というのは、本当に苦手な方はともかく、その大半が只単に怠惰なだけなのではないかという気がするのです。 「分からなかったら聞けばいい」「誰かがやってくれる」というのは女性に多い甘えなのですが、一度「考える」ということを放棄すると、どんどん堕ちていくのが自分でもよく分かります。 結局の所、現時点でのワタクシの身勝手な結論としては「地図が読めない女」ではなく、「地図を読もうとしない女」が正しいのではないかと思うのです。 # by yaminabex | 2004-08-04 00:21
2004年 08月 04日
はじめて香水を手にしたのは、学生時代だったと思います。ジャン・シャルル・ブロッソ作の「オンブル・ローズ」という甘い香りの香水でした。今でも好きですが、今のワタクシには似合わない香りだと思います。
それから幾年も月日が過ぎ、「名香」と言われる老舗香水から新作まで、色んな香水に手を出して随分月謝を払ったような気もしますが、自分の好きな香りとイメージに合いそうなものというものが「これではないかな?」という感じるようになってきました。 出かける機会も少ないモノですから最近では香水ももう滅多に付けなくなりましたが・・・。現在は、それほどメジャーな香水ではありませんが、ジャン・デプレの「バラ・ベルサイユ」とゲランの「シャリマー」というのが好きで、10年来それを使っています。 香水はお洒落の仕上げのように言われますが、TPOを弁えていれば、これほど素晴らしい小道具はないと思います。 当てにならない視覚よりもよりも鋭敏な嗅覚に訴えるということは、自分のイメージを相手に強烈に植え付けることには非常に有効だと思うのです。 しかし、香りが強烈すぎると、別の意味で強烈に相手にイメージを植え付けることになりかねません。これは皆さんもどこかで体験なさっていると思います。楽しい食事の場に紛れ込む強烈な香り、密室のエレベータで偶然乗り合ったばかりに味わう悶絶地獄、そこの場所を通っただけで「あ、ここはさっきまで●●さんがいたのね?」と分かってしまうほどの残り香・・・。 人間の嗅覚で判断される香りというモノは不思議なモノで、ほんのり僅かに香るのは心地よく感じ、頭から一瓶振りかけたんじゃないかと思うくらいの量は悪臭と判断されるようです。 香水を付けている本人は嗅覚が麻痺しますので、「これでもか!」とかけるらしいので、「香水」ならぬ「香害」にならぬようにしなくてはと、自戒しながらお出かけの仕上げを楽しんでいます。 # by yaminabex | 2004-08-04 00:21
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